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神戸地方裁判所姫路支部 平成3年(ワ)158号 判決 1996年3月11日

原告兼原告金谷彩香法定代理人親権者母

金谷章子

原告

金谷彩香

金谷安温

金谷榮子

原告ら訴訟代理人弁護士

澤田恒

菊井豊

山﨑省吾

原告ら訴訟復代理人弁護士

吉田竜一

平田元秀

被告

赤穂市

右代表者市長

北爪照夫

右訴訟代理人弁護士

安藤猪平次

内橋一郎

主文

一  被告は、原告金谷章子及び原告金谷彩香に対し各三九〇万円、原告金谷安温及び原告金谷榮子に対し各六〇万円並びに右各金員に対する平成二年一二月一〇日から支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

二  原告らの被告に対するその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを一二分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告金谷章子及び原告金谷彩香に対し各金五一六七万六〇三九円、原告金谷安温に対し金二七五万円、原告金谷榮子に対し金一一〇万円並びにこれらに対する平成二年一二月一〇日から支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、亡金谷安浩(以下「安浩」という)の妻である原告金谷章子(以下「原告章子」という)、子である原告金谷彩香(以下「原告彩香」という)、実親である原告金谷安温(以下「原告安温」という)及び原告金谷榮子(以下「原告榮子」という)らが、ウィルス性脳炎に罹患し被告が設置・管理する病院に入院し、筋弛緩剤を投与されて自発呼吸を止められ、気管切開を受けてカニョーレを挿管されて人工呼吸管理を受けていた安浩の右カニョーレが抜去ないしは浮き上がり、安浩に換気障害を起こし、それが原因で安浩が死亡した旨主張して、被告に対して、民法七〇九条、七一一条及び七一五条に基づき左記内訳の損害賠償を求めているものである。

1  延命利益の侵害を含む安浩本人死亡慰謝料 二四〇〇万〇〇〇〇円

2  安浩の逸失利益六八三五万二〇七九円につき原告章子及び原告彩香の相続分 各三四一七万六〇三九円

3  原告らの固有慰謝料

各一〇〇万〇〇〇〇円

4  原告安温の負担した葬儀費用

一五〇万〇〇〇〇円

5  弁護士費用

(一) 原告章子及び原告彩香につき 各四五〇万〇〇〇〇円

(二) 原告安温につき

二五万〇〇〇〇円

(三) 原告榮子につき

一〇万〇〇〇〇円

(合計 一億〇七二〇万二〇七八円)

二  争いのない事実等

1  当事者について

(一) 原告章子は安浩(昭和三八年三月八日生)の妻、原告彩香は安浩の子、原告安温は安浩の父、原告榮子は安浩の母である(争いがない)。

(二) 被告は、赤穂市加里屋中洲三丁目五七番地に赤穂市民病院(以下「赤穂病院」という。)を開設し、これを運営しており、耳鼻咽喉科医師長谷部誠司(以下「長谷部医師」という。)、内科医師中村武史(以下「中村医師」という。)は、いずれも赤穂病院に勤務する医師であり、看護婦岸本由紀子(以下「岸本看護婦」という。)及び橋本看護婦は、いずれも赤穂病院に勤務する看護婦である(争いがない)。

2  治療経過等について

(一) 安浩は、平成二年一一月三〇日、ウイルス性脳炎の疑いで赤穂病院に入院した。同病院内科医師坪村達之(以下「坪村医師」という。)は、安浩の主治医として治療にあたり、安浩の臨床所見及び検査結果から、安浩がウイルス性脳炎に罹患しており(争いがない)、ウイルス性脳炎のうち単純ヘルペス脳炎と診断した(成立に争いのない乙第一号証、証人坪村達之の証言)。坪村医師は、安浩が錯乱状態にあったことから、鎮静剤と筋弛緩剤を投与して安浩の自発呼吸を抑制し、経口的気管内挿管の方法でチューブを人工呼吸器に接続して呼吸管理を行い、同時に抗ウイルス剤を投与して治療した(争いがない)。

(二) 同年一二月七日、長谷部医師は、安浩に対し、気管切開術を行い、切開部に挿入したカフ付きカニョーレ(以下「本件カニョーレ」という。)を人工呼吸器に接続して人工呼吸管理を続けた。なお、右人工呼吸器には、自発・強制を問わず、二呼吸間の時間が一五秒以上となった場合に鳴り始める無呼吸アラーム(警報装置)が設置されていた(争いがない)。

3  本件死亡時の状況について

(一) 同年一二月一〇日(以下、単に時間のみで表記する場合は、平成二年一二月一〇日の日である。)午前一一時過ぎ、岸本看護婦と橋本看護婦は、安浩の病室を訪れ、安浩のベッドを移動させて安浩の身体の清拭作業を行った。清拭作業が終了し、橋本看護婦が退室した(争いがない)。

(二) 午前一一時一五分ころ、安浩の人工呼吸器に装備されていた換気状態の異常を示す無呼吸アラームが鳴りだし、その場に居合わせた岸本看護婦によって、本件カニョーレが正常な装着状態でないことが確認された(争いがない。以下「本件事故」という。なお、本件事故の態様及び本件カニョーレの装着状態については争いがある)。

そのため、岸本看護婦は、本件カニョーレを正常な位置まで挿入しようと試みたが、本件カニョーレのヨク(翼)が皮膚に密着するまでの挿入ができず(争いがない)、本件カニョーレは、ヨクが皮膚から一ないし二センチメートル浮いた状態であった。岸本看護婦は、右状態のまま本件カニョーレを人工呼吸器に繋いだものの、再度、無呼吸アラームが鳴った。そのころ、安浩の唇に軽いチアノーゼが発現していた(前掲乙第一号証、証人岸本由紀子の証言)。次いで、岸本看護婦は、本件カニョーレを通じてのアンビューバックによる用手換気を始めたが、安浩の換気障害は改善されなかった(争いがない)。そのため、岸本看護婦は、安浩の口にマウスをセットして、口からのアンビューバックによる用手換気を始めたものの、安浩の換気障害は改善されず、再度、本件カニョーレを通じてのアンビューバックによる用手換気に切り替えたが、安浩の換気障害は改善されなかった(前掲乙第一号証、証人岸本由紀子の証言)。

(三) 急を聞き付けた中村医師は、病室に駆け付け、本件カニョーレのヨクが皮膚から一ないし二センチメートル浮いた状態となっていること及び安浩の口の周りに軽いチアノーゼが発現しているのを確認し、本件カニョーレに管を通して分泌物の吸引をし一ないし二ccの痰を吸引し、本件カニョーレを通じてのアンビューバックによる用手換気を行ったが、安浩の換気障害は改善されなかった。その間に、中村医師は、右用手換気を一〇〇パーセント酸素で行うよう指示した(前掲乙第一号証、証人中村武史、同岸本由紀子の各証言)。次いで、中村医師は、再度本件カニョーレの挿入を試みたが、本件カニョーレは、ヨクが皮膚から約一センチメートル浮き上がったままで完全に挿入することができなかった。そのため、中村医師は、カニョーレの不具合を考慮して新品のカニョーレに交換して再度挿入を試みたが完全に挿入することができず(争いがない)、依然として、カニョーレのヨクが皮膚から約一センチメートル浮き上がった状態であった(前掲乙第一号証、証人中村武史、同岸本由紀子の各証言)。

(四) 長谷部医師は、午前一一時二五分ころ、病室に駆け付け、カニョーレのヨクが皮膚から浮き上がった状態であることを確認し、又、安浩にチアノーゼが発現していることから、低酸素状態にあるものと判断し(前掲乙第一号証、成立に争いのない乙第九号証、証人中村武史、同長谷部誠司、同岸本由紀子の各証言)、カニョーレの挿入を試みたところ正常な位置に挿入され(争いがない)、それによって安浩の換気状態が改善され、午前一一時三一分ころカニョーレが人工呼吸器に繋がれた(前掲乙第一、第九号証、証人中村武史、同長谷部誠司及び同岸本由紀子の各証言)。その後、安浩の心機能の低下が認められたため、その後に駆け付けた坪村医師らによって、午前一一時三五分ころから心マッサージ等の蘇生術が施されたが、安浩の心機能は回復することなく、午後二時三三分、安浩の死亡が確認された(争いがない)。

(なお、以上の死亡確認時刻を除くその他の時刻については、前掲乙第一号証、原告安温本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第九号証、証人中村武史の証言)。

三  争点

1  本件事故の態様

(原告らの主張)

(一) 岸本看護婦は、橋本看護婦と共に安浩のベッドを移動させて安浩の身体の清拭作業を行い、橋本看護婦が退室した後、右ベッドを元の位置に戻そうとして、不用意にも、一人で、後ろ向きで且つ片手で右ベッドをぐいと押した。その衝撃により、安浩に装着されていた本件カニョーレが抜去し、安浩は、無酸素状態となった。

(二) 仮に右事実が認められないとしても、安浩に装着されていた本件カニョーレが二ないし三センチメートル浮き上がり、その先端が安浩の気管から抜け出す状態となり、安浩は、無酸素状態となった。

(被告の主張)

(一) 赤穂病院では、人工呼吸器で呼吸管理している患者の身体を清拭したりその体位を変換したり、あるいはベッドを移動したりする場合には、看護婦二名以上で行うことになっている。又、全身清拭のために患者の体位を変換したりベッドを移動させたりする場合には、人工呼吸器とカニョーレとの接続部を一時的に外し、ベッド移動や体位変換を行った後に再度接続し、接続後は、人工呼吸器の作動状態と患者の胸郭の動きを確認するよう手順が定められており、原告らが主張するように人工呼吸器とカニョーレを接続したまま体位を変換したりベッドを移動させたりすることは通常行われていない。

(二)(1) 本件事故当日も岸本看護婦と橋本看護婦の二名が患者の身体の清拭作業にあたっていた。右両名は、一一時過ぎに安浩の病室に入り、安浩のベッドの足元の方を少しずらし、安浩の身体を清拭した。右清拭作業は、右に定められた手順に従って進められ、清拭作業終了後、右両名は人工呼吸器の作動状況と安浩の呼吸状態に異常の無いことを確認した。これらを終えた後、岸本看護婦は、橋本看護婦に続いて病室を出て、使用したタオルを所定の位置に戻し、再度、安浩の病室に入ったが、その際に、人工呼吸器の無呼吸アラームが鳴り出したものである。そこで、岸本看護婦が直ちに人工呼吸器等を点検したところ、本件カニョーレが二ないし三センチメートル浮き上がっていたものである。

岸本看護婦が安浩のベッドを移動させたこともなく、又、本件カニョーレが抜去した事実もない。

(2) 又、安浩が無酸素状態となったこともない。安浩は換気障害の状態にあったが、アンビューバックによる人工呼吸により不完全ながら肺には酸素が送られていた。

2  安浩の死亡原因について

(原告らの主張)

(一) 本件事故以前の平成二年一二月六日時点における赤穂病院の脳神経外科医師金秀浩(以下「金医師」という。)らの安浩の生命予後に関する判断に照らしても、本件事故発生前は、安浩は少なくとも生命に関しては何らの危険にさらされている状態にはなかった。

本件事故時において、無呼吸アラームが鳴りだしたこと、安浩の唇の周辺にチアノーゼが発現し、安浩が呼吸不全状態にあった事実は中村医師により確認されている上、長谷部医師らにおいても安浩が低酸素状態にあった事実を認めていること及び安浩の換気障害が一〇分ないし一五分継続した事実並びに本件事故直後とも言える午後二時三三分に安浩の死亡が確認された事実に照らすと、安浩の死因は、本件事故を原因とする換気障害による心不全と理解するのが自然かつ合理的である。

(二) 被告は、医師として最初に駆け付けた中村医師による蘇生術の段階で安浩の換気状態は改善されていた旨主張するが、本件において右のような事実は存在しない。長谷部医師及び坪村医師が蘇生術を試みた段階では、安浩の心臓は、機能できるぎりぎりの状態にあり、右医師らによる換気改善は既に手遅れの状態にあったものであって、安浩の換気不全が回復した事実も医師による蘇生術が成功した事実も存在しない。

(被告の主張)

安浩には、換気障害が続いている間においても、アンビューバッグによる人工呼吸により不完全ながら一〇〇パーセント酸素の換気が行われており、呼吸機能は完全に停止していたわけではないし、心拍数に変化はなく、心臓も正常に機能していた。安浩の心拍数が低下しだしたのは、長谷部医師によるカニョーレの再装着が成功して呼吸機能が完全に回復して約五分ほど経過してからのことである。したがって、安浩の心停止の原因が本件事故に起因する換気障害にあるということはできず、むしろ、安浩の脳炎は非常に重篤なものであった事実からすれば、安浩の心停止の原因は、脳炎のために生じた脳圧亢進及び脳浮腫によるものと考えられる。

3  被告又は被告被用者の過失について

(原告らの主張)

(一)(1) 人工呼吸で呼吸管理している患者の看護を担当する看護婦には、患者の清拭等、患者の体位を変換しなければならない際には、患者に装着されたカニョーレが抜け落ちたり正常な位置から移動したりすること(以下「カニョーレの異常状態」という。)の生じないように注意する義務がある。

また、赤穂病院においては、清拭作業は、必ず看護婦が二人以上で行うように決められていた上、岸本看護婦自身においてもベッドを動かす際には点滴、人工呼吸器等を引っ張ったりすることのないように医師から指示を受けていたのであるから、岸本看護婦は、安浩の清拭作業のためにベッドを動かす際、カニョーレの位置がずれて安浩に換気障害を来すことのないよう、必ず二人以上で細心の注意を払ってベッドを動かす義務を負っていた。

(2) 前記三1の「原告らの主張」(一)のとおり、岸本看護婦は、橋本看護婦と共に安浩の身体の清拭作業を行い、橋本看護婦が退室した後、不用意に一人で後ろ向き且つ片手で安浩のベッドをぐいと押し、その衝撃により、安浩に装着されていた本件カニョーレが抜去し、安浩が無酸素状態となったものである。したがって、本件事故については、岸本看護婦に過失がある。

(二) カニョーレの装着又は管理上の過失について

(1) カニョーレには、患者が首を動かしたりバッキングをおこしたりすると浅くなりすぎて気管から抜けてしまったりする危険や、患者の体位変換時に抜けてしまう危険があり、カニョーレの異常事態は決して医療現場において稀な事態ではなく、医療機関においても一般的に予測可能で、また、長谷部医師を初めとする赤穂病院の医師及び看護婦においても十分予測可能であった。

したがって、気管切開術を施術した長谷部医師は、カニョーレが正常な位置から移動しないように装着する義務を負っていたものであり、右装着後は赤穂病院において、常時、カニョーレの正常な位置からの移動がないかという点につき管理しておくべき義務を負っていた。

(2) 本件において、仮に前記三1(一)において原告らが主張した原因(本件ベッドの移動)によってカニョーレが抜け落ちた事実が認められず、何らかの偶発的原因により安浩の気管内に装着されていた本件カニョーレが一、二センチメートル安浩の気管内から抜け出たものであるとしても、カニョーレの装着及び装着後の管理が適切になされていれば、右のような事態は発生しなかった。右のような結果が発生した原因は、本件カニョーレの装着又は装着後の管理に不適切な点があったためと考えられる。前記のとおり、カニョーレには正常な位置から移動する危険が常に内在することからすれば、右のような事態の発生を未然に防止する義務が医療側に存在しているから、本件では、気管切開の上カニョーレを装着した長谷部医師に関し右装着上の過失が、又、装着後においてカニョーレの装着状態を管理すべき義務を負っていた赤穂病院に関し右管理上の過失があったというべきである。

(三) 赤穂病院の救命体制に関する過失について

(1) カニョーレ装着後におけるカニョーレの異常事態の発生及びその場合に適切な措置を講じないと患者に不測の事態が発生することは、赤穂病院の医師及び看護婦においても予測可能であったということができる。したがって、仮に何らかの原因でカニョーレの異常事態が発生した場合、一般に医療機関には速やかに患者の換気障害を解消すべき義務があり、赤穂病院においても、医師らが速やかに患者の換気障害の改善措置を講じられるような体制を確保する義務があったというべきである。

特に、本件のように気管切開による人工呼吸管理が行われている場合、右切開後、カニョーレのチューブを引き抜いた状態でもカニョーレの再挿入が比較的容易に行えるためには、右切開孔の肉芽の形成を受け気管切開孔がきちんと見える状態になることが必要となるが、その期間として約一週間を要するから、それ以前の時点において、内科医師や看護婦が抜けかけたカニョーレを正常な位置まで再挿入することは困難な状態にあったといえる。したがって、気管切開から三日後である本件事故当時、赤穂病院の管理体制としては、安浩に換気障害が発生してから三分以内に麻酔科あるいは他の救急蘇生処置に習熟した医師が右異常事態を解消するため病室に駆け付けることができる体制を確保しておく義務があった。

(2) しかるに、赤穂病院においては、人工呼吸による呼吸管理を行っている患者に異常事態が生じた場合、近くにいる医師あるいは看護婦ができるだけ早く処置に当たるという程度の体制をとっていただけで、麻酔科あるいは他の救急蘇生処置に習熟した医師が右異常事態を解消するため病室に駆け付けることができる体制は何ら確保されていなかった。そのため、本件においても無呼吸アラームが鳴りはじめてから長谷部医師が駆け付けるまでに一〇分以上の時間を要しており、右のような体制確保の義務は尽くされていなかった。

(3) 本件において、右(1)の義務が尽くされていたならば、仮に前記二3のように換気障害が生じたとしても、これによる安浩の死亡が防止できたと考えられるから、右(1)の体制を確保していなかった被告には、安浩の死亡事実につき過失があったこととなる。

(四) 本件事故に対する具体的救命措置に関する中村医師の過失について

(1) カニョーレ再挿入に関する過失

中村医師が安浩の病室に駆け付けた際及びその後の状況は前示二3(三)のとおりである。

中村医師は、患者の異常事態を聞いて駆け付けてきたものであるから、右異常事態を解消する義務、具体的には、カニョーレのチューブのヨクが首に接着する正常な位置まで再挿入して、安浩の無呼吸状態を解消する義務を有していたものであり、本件において右義務を果たさなかった中村医師には過失が存在することとなる。

なお、被告は、カニョーレが約一センチメートルくらい浮き上がっても、一般に換気障害にならない旨主張するが、中村医師がカニョーレの再挿入を試みた段階では、カニョーレは気管内にはなく気管前軟部組織内に止まっており、同医師により安浩の換気障害が改善された事実はない。

(2) 口腔からの送気により用手換気を行わなかった過失

中村医師は、安浩の口の周りにチアノーゼが発現していること及び本件カニョーレのヨクが首の皮膚から約一、二センチメートル浮いていることを確認していた。したがって、中村医師においては、カニョーレの先端が気管内の正常な位置に達していないことが原因で安浩が換気障害を来していることを予測することは十分に可能であったから、中村医師としては、カニョーレの正常な位置までの再挿入を断念した時点で、アンビューバッグ等による用手換気に切り換える義務があった。そして、その場合、右のとおりカニョーレの先端が気管内になかったことは中村医師にも予測可能であったから、アンビューバッグによる人工呼吸を行う際は、カニョーレを通じて行っても効果がないと判断した上、口腔から酸素を送る義務があった。

しかるに、中村医師は、アンビューバッグを使っての用手換気に切り換えてはいるものの、カニョーレを通じて酸素を送っており、右の点につき、中村医師には、救命措置に関わる医師として過失があったというべきである。

なお、被告は、気管切開しているため、口腔からアンビューバッグで空気を送っても、気管切開孔から空気が漏れることから胸郭を広げる力がなく、空気を肺に送り届けることはできないと反論しているが、気管切開孔を塞ぐことにより、外部あるいは軟部組織に多少空気が漏れても有効な人工呼吸は可能であったから、右反論は失当である。

(3) 人工呼吸の手技が未熟なために換気障害を改善できなかった過失

仮に、本件において、中村医師が口腔からの換気を試みていた事実があったとしても、右により十分に安浩の換気の改善を図れなかった結果に照らすと、その原因は、気道確保のためのマスクの保持が確実に行われなかったなど、基本的な人工呼吸法の手技に未熟な点があったことが原因であり、右の点につき、中村医師には、救命措置に関わる医師として過失があった。

(被告の主張)

(一) 岸本看護婦の過失について

岸本看護婦らが安浩の身体の清拭作業を終了した後の状況は、前記三1の「被告の主張」(二)(1)のとおりであって、岸本看護婦が安浩のベッドを移動させたことはなく、岸本看護婦には何らの過失もない。

(二) カニョーレの装着又は管理上の過失について

カニョーレは、気管に挿入した後は挿入部分のカフを空気圧で膨らませることによって気管内に固定し抜けないような構造になっているため、カニョーレを気管に挿入し、カフを膨らませて固定した場合には、何らかの理由でカニョーレが自然に抜け出すことはなく、わずかな力で外れることもない。

(三) 本件事故に対する赤穂病院の救命体制に関する過失について

右(二)のとおり、カニョーレは、何らかの理由で自然に抜け出すこともなく、わずかな力で外れることもないから、赤穂病院において、カニョーレが抜けることまで予測して事前にその場合に対処すべく特別な措置を講じておく必要はなかった。

もっとも、カニョーレのチューブに小さな穴があったり、接続部が緩んでいたり、あるいは、カフが十分膨らんでいないため肺に加わる圧力が低下した場合に無呼吸アラームが鳴り始めることがあるが、その場合には、近くに居合わせる看護婦や医師がすみやかにその原因を取り除いて正常な状態に回復させれば足り、右措置に特に困難な問題はない。

本件においても、まず本件カニョーレが抜けかけているのに気付いた岸本看護婦が挿入し直した際、右カニョーレの挿入状態は十分ではなかったが、取り合えず人工呼吸器に接続し、呼吸状態の改善の有無を確認したところ、再度無呼吸アラームが鳴ったので、自らアンビューバッグで強い圧力を加えて人工呼吸による換気を図るとともに、室内にいた安浩の父親にナースコールのボタンを押すように指示して救援を求めている。そして、ナースコールをすると近くのナースステーションにいた中村医師がすぐに駆け付け、気管内分泌物の除去、カニョーレの再挿入、カニョーレの交換を次々に迅速に行っており、予測し難い緊急事態に対する処置としては、医療関係者により十分に対処しうる体制にあった。また、この間も、アンビューバッグによる人工呼吸が続けられており、不完全ながら一〇〇パーセント酸素による換気が行われていたことにより、安浩の呼吸機能も完全に停止していたわけではない。赤穂病院には、集中治療室がなく、本件のような患者を治療するにあたっては、本件のように看護婦詰め所に近い個室で対応する以外に方法はなく、被告には、赤穂病院の救命体制に関する過失はない。

(四) 本件事故に対する具体的救命措置に関する中村医師の過失について

(1) カニョーレ再挿入に関する点について

術後一週間以内におけるカニョーレの気管再挿入は、肉芽の形成が充分でないため、専門医でも決して簡単ではないが、本件において、中村医師がカニョーレを交換した後は、胸郭が動き呼吸音が聴取され、かつ、チアノーゼの改善が認められており、又、皮下気腫が形成されていなかったことから、少なくともカニョーレの先端は、気管内にあったというべきである。

したがって、安浩の換気としては、完全ではなくとも十分であり、その状態を維持しつつ専門医である長谷部医師の到着を待った中村医師の採った措置は相当なものであり、又、長谷部医師により直ちに完全な装着がなされた上換気状態を改善していることからして、中村医師に救命措置上の過失はない。

(2) 口からの送気により用手換気を行わなかった点について

気管切開してカニョーレを挿入している場合には、口腔からアンビューバッグで空気を送っても、気管切開孔から空気が全部漏れて胸郭を広げる力が働かないので、空気を肺に送り届けることはできない。したがって、アンビューバッグによる人工呼吸は当然気管切開孔に挿入されたカニョーレから行うべきものである。

(3) 人工呼吸の手技が未熟なために換気障害を改善できなかったとの主張について

原告らは中村医師の人工呼吸の際の気道確保の手技が未熟であった旨主張するが、どのような専門医でも、マスクだけで人工呼吸を完全に成功させることは不可能であり、マスクによる人工呼吸で換気状態が改善されなかったからといって、直ちに手技未熟ということはできない。

4  損害について

(原告らの主張)

(一) 安浩の救命可能性及び死亡慰謝料について

一般的に我が国におけるウイルス性脳炎に罹患した患者の死亡率は三〇パーセントである上、近年抗ウイルス剤の導入により社会復帰する症例の率が上がっており、これに加えて、本件では、赤穂病院の平成二年一二月三日付けカルテに安浩の救命を前提とした記載の存在すること及び同月六日に金医師も安浩の生命予後がそれほど悪くないとの判断を行っていた事実に照らせば、本件事故が存在しなければ、ウイルス性脳炎自体によって安浩の生命が失われることはなかったというべきであるから、本件において、被告は、原告らに対し、安浩の死亡により生じた各慰謝料について支払うべき義務を負うというべきである。

(二) 延命利益の侵害における慰謝料額について

仮に、被告の過失と安浩の死亡との間の因果関係が否定されるとしても、延命利益の侵害が認められるべきであるが、右の場合においても、延命利益の侵害における慰謝料は、通常の生命侵害における死亡慰謝料と同程度の額が算定されるべきであって、本件では慰謝料の減額を行うことは許されないというべきである。

特に本件では、安浩において自発呼吸が可能であったにもかかわらず、坪村医師の判断で筋弛緩剤により安浩を無意識状態にした上、人工呼吸器による呼吸管理を行い、右に際しても一般的な気管内挿管ではなく気管切開を選択したものであるが、右事実によれば、安浩は、ひとたび呼吸管理上の異常事態が発生すれば、自力でそれを回避することも不可能で、直ちに生命に対する危険も予測されるような状態に置かれていたのであるから、赤穂病院としても、安浩に対する絶え間ない注意、安浩に異常が生じた場合に直ちに適切な対処をすることができる体制の確保という呼吸管理上の事故を回避するための基本的かつ危険回避に絶対確実な義務が課されていたにもかかわらず、右各義務を懈怠したことにより、安浩の死亡という事実を招来させたものであるから、延命利益の侵害における慰謝料額を減額することは許されないというべきである。

また、本件事故発生後、赤穂病院は、死亡診断書において、カニョーレが抜け落ちた事故があった点に何ら触れず、直接死因についても「ウイルス性脳炎」と記載するなど、事故を隠ぺいするがごとき行動をとり、本訴においても、鑑定書が提出されるや安浩の死因について従前の主張から方向転換した医師の意見書を提出するなど、極めて不誠実な態度に終始しており、損害賠償が損害の填補のみならず、予防的機能、制裁的機能をも副次的に有している点に鑑みても、慰謝料の減額は許されるものではない。

第三  争点に対する判断

一  争点1(本件事故の態様)について

1  原告らは、本件事故は、岸本看護婦が一人で後ろ向き且つ片手で安浩のベッドをぐいと押したため、その衝撃により、安浩に装着されていた本件カニョーレが抜去した旨主張し、原告安温本人はこれに沿う供述をし、又、甲第一、第九号証(原告安温作成の文書)にも右主張に沿う記載がある。

しかし、前掲乙第一号証及び証人岸本由紀子の証言によれば、赤穂病院では人工呼吸器により呼吸管理をされている患者のベッドを動かす際は、二人で行うこととされており、又、安浩に関しては、ベッドを動かすときは呼吸器が外れないよう注意する旨の具体的な指示がなされていたこと、岸本看護婦も右注意事項等を知悉していたことが認められるところ、右注意事項等を認識していた岸本看護婦において、一人で後ろ向きという不自然な態勢でベッドを押さなければならなかった事情は認められず、岸本看護婦が右注意事項等に反して本件カニョーレに異常事態を招くような危険な行動を行ったとする原告安温の供述部分は不自然である。又、原告安温本人の供述は、本件ベッドを移動させたとする部分については「後ろ向きに右手で体をベッドに押っ付けるように、ぐいと押した」というものであるところ、その意味内容が不明確であり、又、本件ベッドを移動させたとする部分については比較的詳細であるにもかかわらず、その直後の医師や看護婦らによるカニョーレの再挿入等に関する部分については、確認していないので判らない旨供述するなど曖昧な部分があり、供述全体として不自然なものであり、かつ、証人岸本由紀子の証言に照らして、前記原告安温本人の供述部分等はたやすく採用しえず、他に前記原告らの主張事実を認めるに足る証拠はない。

2  証人岸本由紀子の証言によれば、岸本看護婦は、安浩の身体の清拭作業が終わった後、清拭作業に使用したタオルを始末するため、右タオルを安浩方の洗面器に入れて橋本看護婦に続いて安浩の病室から出てタオルを清拭車に入れ、右洗面器を返すべく再度安浩の病室に入った際に無呼吸アラームが鳴り出したこと、そこで、岸本看護婦が点検したところ、本件カニョーレが正常な装着位置から二ないし三センチメートル浮き上がった状態となっているのを発見したことが認められる。

二  争点2(安浩の死亡原因)について

前掲乙第一号証、成立に争いのない乙第二号証、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第六号証、証人坪村達之の証言、鑑定の結果によれば、ウイルス性脳炎によって死亡するに至る主たる原因は脳浮腫が進行した脳ヘルニアであること及び本件事故当時、安浩は、ウイルス性脳炎によって、大脳に非常に高度の脳浮腫が生じており、最重症度のウイルス性脳炎であったことが認められるが、脳ヘルニアに至っていたものとは認められない。

前掲乙第一号証、証人坪村達之の証言によれば、安浩の主治医である坪村医師は、本件事故当日にCT検査等の検査を行うことを予定していたこと、又、本件事故当日の午前中に回診したがこれまでの症状と比べて特に異常は認められず、その後、外来患者の胃カメラによる検査を行っていたことが認められる。

右事実に照らせば、本件事故当日においては、安浩の生命に、ウイルス性脳炎を原因として本件事故当日に死亡するに至るような切迫した危険があったとは認められない。

そして、これらの事情と前示二2の安浩が死亡するに至った経緯、即ち、本件事故により換気障害を起こし、それが少なくとも一〇分間継続し、その後に心機能が低下し蘇生術を施すも死亡するに至ったこと及び鑑定の結果を総合すれば、安浩は、本件事故による換気障害により、心臓が低酸素状態に陥り、それによる心不全を原因として死亡したものと認めるのが相当である。

三  争点3(責任原因)について

1 争点3(一)(岸本看護婦の過失)について

本件事故の態様は前示一のとおりであって、岸本看護婦が安浩のベッドを移動させたとの事実が認められないから、この点についての原告らの主張は理由がない。

2 争点3(二)(カニョーレの装着又は管理上の過失)について

本件事故の態様は前記認定のとおりであり、以下これに基づき判断する。

(一)  前記第二の二の事実に前掲乙第一号証、成立に争いのない甲第一一、第一二号証、乙第八号証、証人岸本由紀子、同坪村達之及び同長谷部誠司の各証言を総合すると次の各事実が認められる。

(1)  本件事故当時、安浩は、ウイルス性脳炎の治療のため、筋弛緩剤の投与により自発呼吸の停止の措置を受けた上、呼吸については気管切開の方法によりカフ付きカニョーレを気管切開部から挿入され、右カニョーレを人工呼吸器に接続することによって人工呼吸管理を受けていたところ、このような場合には、人工呼吸管理を受けている者に換気障害が生ずることのないよう適切な換気の維持をすることが治療上も重要であり、右の事実は、本件においても赤穂病院の医師及び看護婦がこれを認識していたこと

(2)  一般に、気管切開の上でカニョーレの装着を受けた場合において、患者自身による体動のほか自発呼吸、咳嗽(がいそう)、体位変換などによりカニョーレの先端が正常な位置から移動する可能性があるため、カニョーレのヨクにひもを通して確実に固定する必要があったこと

(3)  本件において、安浩は、筋弛緩剤の投与を受けていたにもかかわらず、完全に自発呼吸が停止しておらず、本件事故当日においても自発呼吸が残っており、吸痰時においても人工呼吸器による器械呼吸と自発呼吸のリズムが合わないために生ずるしゃっくり様の症状であるファイティングの現象が存在したこと及び気管切開カニョーレの装着を受けた平成二年一二月七日以降においても、安浩は毎日一回身体の清拭を受けるほか、切開部のガーゼ交換、二時間ごとの体位変換及び吸痰作業などにより、安浩には右(2)に記載したカニョーレの移動の可能性が存在したこと

(4)  気管切開によりカニョーレを挿入した場合において、特に切開直後の一週間以内は、切開孔の肉芽の形成が充分でないため、カニョーレが抜け落ちた場合、その気管切開孔がふさがりやすく、カニョーレの再挿入が極めて困難なこと

右認定した事実によれば、人工呼吸器により呼吸管理を受けている患者の治療にあたっている医療機関としては、特に気管切開後の一週間については、カニョーレが正常な位置から移動しないようにヨクに通した固定紐等により固定するとともに、右固定紐等に緩みがないように常時注意する義務を負っていたということとなる。

なお、被告は、カフを膨らませた場合には、その効果により何らかの理由でカニョーレが自然に抜け出すことはなく、わずかな力で外れることもない旨主張するが、前掲甲第一一号証及び弁論の全趣旨(特に鑑定書記載内容)によれば、カフの役割は、気管とカニョーレの間の空気の漏れを防止するとともに、唾液や吐物が気管内に流れ込むことの防止にあって、かえって、カフ圧を高めすぎることによって気管粘膜の損傷を招くことから、医学上は必要最小限の圧力を保つ必要があるとされていることが認められるから、カフに適正な空気を送り込んだという事実のみをもって、当該医療機関が前記義務を果たしたということはできないものというべきである。

(二)  そこで、以下、本件について、被告に関し右義務違反の事実について検討する。

本件カニョーレが二ないし三センチメートル浮き上がった原因がベッドの移動によるものと認められない点は前記説示のとおりであるところ、本件では、安浩が筋弛緩剤により体動困難な状態に置かれていたことからすれば、同人自身が無意識的に手でカニョーレを引っ張った可能性は認められず、本件全証拠を検討しても、本件カニョーレが二ないし三センチメートル浮き上がった直接の原因は明らかにすることはできないから、反証のない限り、本件カニョーレが二ないし三センチメートル浮き上がったのは何らかの偶発的事由によるものと推認するのが相当であり、本件全証拠を検討するも他に右推認を覆すに足る証拠はない。

そして、前記(一)(3)で認定のとおり、本件ではファイティングの現象、ガーゼ交換又は体位変換などにより、安浩に装着されていたカニョーレが正常な位置から移動する可能性が存在していたところ、前記説示のとおりカフのみによっては右移動を防止し得ないことに鑑みれば、本件でも、右のような事実により容易にカニョーレが移動しないよう、赤穂病院の医師にはヨクの固定紐により確実に固定しておく注意義務があり、又、同病院の看護担当者においても常時カニョーレの正常な位置から移動することがないよう管理しておくべき注意義務を負っていたと解されるところ、前記のとおり、本件において何らかの偶発的事由により本件カニョーレが浮き上がった場合には、他に反証のない限り、右いずれかの措置に不適切なところがあったものと推認するのが相当であり、本件全証拠を検討するも他に右推認を覆すに足る証拠はない。

(三)  以上によれば、本件事故は、赤穂病院の医師の過失又は右医師らも含めた赤穂病院の看護担当者の管理上の過失により発生したものというべきである。

四  争点4について

1  前掲乙第一、第六号証、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第一〇、第一二号証、証人坪村達之の証言及び弁論の全趣旨(鑑定書の記載内容)によれば、安浩がバルビツレート昏睡の状態にあったため、本件事故当時の神経学的所見は明らかではないものの、平成二年一二月四日及び同月五日のCT検査において、安浩の両側の大脳に非常に高度の脳浮腫が広範囲に認められており、右脳浮腫は最重度のものであり、本件事故当時においても少なくとも右脳浮腫の状態が継続していたこと、本件事故当時は白血球が通常よりも増加した状態が継続し、入院以来本件事故当時まで三八度後半から四〇度台の高熱が継続していたことが認められ、右事実に鑑定の結果を総合すれば、本件事故当時における安浩のウイルス性脳炎は最重症度のものであったことが認められる。

そして、前掲乙第二号証によれば、我が国における単純ヘルペス脳炎の一般的な死亡率が三〇パーセントであり、その高い致命率の原因は、単純ヘルペスウイルス感染による広汎な脳損傷や急速な脳浮腫、腫張による脳ヘルニアなどによるものであることが認められるところ、これを前記認定した本件事故当時の安浩の症状に照らすと、仮に本件事故を原因とする換気障害という事実が生じなかったとしても、安浩を最終的に救命することは困難な状態にあったものというべく、本件全証拠によっても、本件事故がなければ安浩を救命し得たとは認めることはできない。

したがって本件損害のうち、逸失利益、葬儀費用及び救命可能性を前提とする慰謝料については、その余の点について判断するまでもなく理由がない。

しかしながら、前掲乙第一号証によれば、本件事故当日においても、なお自発呼吸や瞳孔の対光反射が存在していることから脳幹反応の一部が残っていたこと及び脈拍も比較的安定していたことが認められ、これらの事実を総合考慮すると、本件事故が発生しなければ、安浩を最終的に救命し得たとまでは認め難いものの、その可能性もある程度存在し、少なくとも同人の死期を遅らせることができたと推認することは十分可能であるといわなければならない。

そうすると、安浩は、本件事故により適切な治療を受けて治癒する機会と可能性を奪われ、少なくともその死期を早められたという結果に至ったものであり、同時に原告らにおいても、予期せぬ原因により安浩の死期を早められたことにより、一日でも長く安浩に生きていてもらいたいとの肉親の情として当然の期待を奪われる結果に至ったものであるところ、このような適切な治療を受ける期待及び延命可能性もまた治療を求める患者及び親族らの期待として法的保護に値する利益であると考えられるから、被告には、安浩及び原告らが右利益を奪われたことにより同人らに生ずる精神的損害を賠償すべき義務があるというべきである。

2  損害について

本件口頭弁論に現れた一切の諸事情を考慮すると、その精神的苦痛に対する慰謝料としては、安浩については五〇〇万円、原告章子及び原告彩香については各一〇〇万円、原告安温及び原告榮子については各五〇万円であると認めるのが相当である。

3  原告らの損害

原告章子が安浩の妻、原告彩香が安浩の子であり、安浩の法定相続人であることは当事者間に争いがないから、原告章子及び原告彩香が安浩の相続分の各二分の一を相続したことになる。

したがって、原告章子及び原告彩香は、安浩の損害のうち各二五〇万円をそれぞれ相続した。

以上によれば、本件における原告章子及び原告彩香の各損害は、右相続により取得した二五〇万円と固有の慰謝料一〇〇万円を合計した三五〇万円、原告安温及び原告榮子の各損害は、前記認定にかかる五〇万円となる。

4  弁護士費用について

弁論の全趣旨によると、原告らが本件訴訟の提起及び追行を原告ら訴訟代理人らに委任し、相当額の費用及び報酬の支払いを約束していることを認めることができるところ、本件事案の性質、追行の難易度、審理の経過及び認容額等を考慮すると、原告らが本件医療事故と相当因果関係のある損害として賠償を求め得る弁護士費用の額は、原告章子及び原告彩香につき各四〇万円、原告安温及び原告榮子につき各一〇万円が相当である。

五  結論

以上によれば、原告らの本訴請求は、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償請求権に基づき、原告章子及び原告彩香につき各三九〇万円、原告安温及び原告榮子につき各六〇万円並びに右各金員に対する本件不法行為の日である平成二年一二月一〇日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるから、右の限度でこれを認容し、その余の部分はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官寺﨑次郎 裁判官芦髙源 裁判官鵜飼祐充)

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